Web2.0時代の情報アーキテクチャ

かつて情報が希少で、それを処理する能力も限られていた時代には、一部の官僚やエリートが情報を支配し、それを一般大衆に伝えるのが現実的でかつ効率的な手段だった。メディアでいっても一部の職業的な役割をもつ記者たちが情報を集め、それをマスメディアとして大量に印刷して配布する方式が合理的だとして広く一般化した。企業内においてはメインフレームと呼ばれるような強大なコンピューターが中心に位置し、そこに接続された端末と呼ばれる装置を使って、データを入力したり結果を受け取るような中央集権的なモデルが支配的だった。

しかし、一部のエリートであれ、コンピューターであれ、膨大な情報の中から全ての人々の要求を満たす情報を提供することは論理としてできない。それは新聞で言えば今や平均して読者に読まれるページは3~4p程度に留まり、TVで言っても、家族みんなで観られる番組編成は、必然として専門的な情報を望むユーザーの期待に応えることは出来ないということになり、それは視聴率という形で露呈された。インターネットサイトのPVをみてもasahi.comのような特定メディアと、それらを集約するような巨大なポータルサイトとではその差は大きく開かれるものとなっています。

企業内の情報伝達で言っても、中央から発信されるプッシュ型の “お知らせ” は一般情報としての意味は備えるが、社員一人一人の業務という面での要求を満たすことは到底できない。「必要な情報は現場にある」ということで、90年代半ば以降Windowsの大きな成功を背にしたナレッジマネジメントやそれを支えるシステムの需要が一気に高まりをみせますが、続いて押し寄せる波はグローバル化と新興国の台頭になる。その波を乗り越えていくためには部門横断、組織横断的な情報共有が必要だということで、世界中どこにいても繋がることのできるクラウドのようなアーキテクチャの上でサーフしていこうという話となった。

また一方では、企業のエリート層を中心に、”流動性の高い市場において企業が勝ち残るためには、自律した個人による自律した組織こそが重要だ” とする組織改革やFacebookの世界的な成功なども相まって、エンタープライズソーシャルという新しいコラボレーションが始動することになったのがここ数年の話といえます。


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Windows95の登場以降、いまや一人一台なんらかのPCやスマートフォンなどのデバイスを持つようになり、いつでも誰でも好みの情報を探すことができ、かつ誰もが情報の発信者に成り得るようになりました。大手メディアと比較して個人のブログはいまや50億を超えるとも言われ、どんな検索結果でもトップ10の多くは非営利サイトや個人サイトで、もはや情報は特定の中央にはなくソーシャルの力は多層の生態系のごとくの様相を呈することになった。IDCによればインターネット全体の持つデータは2020年には40ゼタバイト(40,000,000,000,000,000,000,000バイト)を超えることになるが、人間の認知科学の中では人の文字の認識力はせいぜい1秒40バイト程度に留まる。そのような膨大な情報の中から人はどのようにして、必要な情報を必要なタイミングで取り出し活用が出来るかということは現在進行形の課題である。

しかし、Googleの検索の結果が全てではないし、ディレクトリ型のポータルで提供される情報にも限界がある。Amazonにみるようなパーソナライズされたオススメに至っては、みんなが観たという情報なだけであり、それが良質どうかは全く別の話である。ただ、そうはいっても膨大なデータの中から一つの情報を取り出すというコストを考えるとこうしたツールの重要性は明らかであり、必要に応じた組み合わせこそが重要になってくる。

ミルグラムの “6次の隔たり” によれば  “知人の知人の知人の知人の知人の知人” により世界はひとつに繋がるという。言い換えればそれは必ず問題を解く鍵を持っている人物に繋がるということだ。企業という小さな単位であれば、知人の知人程度でほぼ全体を網羅することが出来るため、問題解決も情報の拡散も瞬時に行うことが可能になる。今や老舗の温泉旅館もソーシャルを活用した迅速な情報伝達が結果として高い顧客満足度に繋がっているという。これがソーシャルテクノロジのもつ”レスポンスの早さ”である。

また人間というのは、心理学的にいっても自分から見て遠い人々にはあまり興味がないものだが(例えばアラブの石油王が新たな油田を発見したという話よりも、身近な知人がクジで少額当てたという話のほうが反応するというよう)自分との距離や関係性の深さによっては内容如何に関わらず何時間もおしゃべりが出来るものである。こうしたミルグラムの発見は、のちに社会ネットワーク分析と呼ばれるような数学的、実証的学問へと発展していくことになる。

組織におけるコミュニケーションの量と業績には相関があると無数のマネジメント研究により伝えられているが、かつてトヨタとGMの合弁会社のNUMMIにおいて、トヨタが行った最初の改善のための試みは、工員の作業場所の設計の変更であり、それは一人きりで組み立てラインに向かうのでなく5人のチームメンバー全員を向き合う位置にとらせるものだった。そこでの絶え間ないコミュニケーションから生まれる協力関係は、実に25年以上に渡り全米でトップの生産性と品質を維持し続ける力の源泉となったという。そうした協力の科学となるコミュニケーションの実験で最も有名なものとして、90年代半ばのDavid Sallyのsocial dilemmaがあるが、被験者たちに対面コミュニケーションを許すだけで、互いの協力水準はほぼ2倍となるという結果が一貫して見られる。

コミュニケ―ションにより協力関係が生まれるのか、協力関係があるからコミュニケーションが生じるのかのという関係は状況によって都度異なるだろうが、総じて業績の良い企業においてはコミュニケーションのし易い雰囲気があり、またそれが組織の戦略として適切にマネジメントされている。情報を作り出すのが人であれば、それを使っていうのもまた人である。したがって良好な人間関係と相互扶助がなければこのようなインフォメーションアーキテクチャも十分に活かすことができないからである。

現在エンタープライズソーシャルという言葉の定義はまだ曖昧であり、企業向けのサービスを提供する事業者側での解釈にてそれぞれのソリューションが存在する。ただ、ここでいうエンタープライズソーシャルは特定のツールのことでもなく、マネジメントの手法でもない。エンタープライズソーシャルは目の前に広がる社会そのものであり、顧客との信頼関係であり、社員ひとりひとりのコラボレーションを支えるプラットフォームである。故にエンタープライズソーシャルはこのようなIAを必要とすることもあるが、エンタープライズソーシャルはIAでないことを強調しておく。その意味でITに出来ること、組織マネジメントに出来ることはそれぞれ異なり、組織の目指す共通の目的に向け各方面の力がそれぞれ相互補完的でなくてはならないだろう。

コミュニケーション出来ない残念な日本人

先日、ある人より「日本人は議論におけるオピニオンとパーソナリティの分離の訓練が出来ていないことが多く、そのことにより意見のぶつかり合いが直接私的なぶつかり合いになってしまい、すぐに人格的でプライベートな対立になってしまう。」という類の相談を受けました。

意見対立がいつも人格対立に及ぶ不自由さ。意見の対立後、「私はxxさんに嫌われている。ひどい」などという話はよく聞かれますが、当事者から見れば、パーソナルな部分などは見ていないという反論もあるでしょう。また、そのような企業では、そもそも「批判」という言葉が=攻撃、同義なっていることが、コミュニケーションの問題をややこしいものにさせているようです。

本来批判というのは、ある文脈から割り引くこと、文脈を真に受けないこと。残念ながらその意味での批判という概念が十分に理解されていないことが少なくない。「批判」という概念が十分に理解されていれば、特定の意見や思想に対して筋違いな排除機能が働くということも少なくなるでしょうし、そもそも真に受けないのであえて排除する必要もなくなるわけです。批判がある毎に反応していたら建設的な話にならないので、まずは議論の前提となるリテラシーを身につけなくてはならないということになります。

一般的に「批判的思考力」と呼びますが、つまり紛争解決能だとか葛藤処理する能力みたいな能力が日本には決定的に欠けているということがよく言われています。つまり、予定調和的で、社会に貢献する力だとか、人間関係を良くしていこうだとか、人の心をわかる力だとか、そういったものばかりが並んでいて、「人としての対立があることを前提として解決していく力」、そういう考え方がすっかり払拭されているということが指摘されます。

順接的であって、適応性が高い人自体は素晴らしいことですが、それはうまく適応してかわしていく能力であり、柔軟ではあるけれど、抵抗・批判に現状を乗り越えて行く力とはまた違うわけです。ところが日本では、「協調性」 ばかりが重視され、「個性」 ・ 「主体性」 は軽視されています。

同じことを言っている方がいたので引用しますが、

「協調性ばかりが重視される社会においては、個人の自由が尊重されず、また、各個人が自分を見失ってしまって 「楽しく生きる」 ことができません。そして、個人の自由が保障されていない社会は、最終的には破滅への道を歩むのです。 確かに協調性、チーム・ワークといったものは必要ですが、それらは強烈な個性と個性が集合し、互いに火花を散らして激しくぶつかり合うような集団に初めて必要になってくる高度な理念です。ところが、日本の教育では、子どもたちに個性を持たせるステップを省略して、協調性だけを教育するのです。これでは 「協調性」 の教育もおかしなことになってしまいます。 個性を持たせずに行う 「協調性」 の教育は、「協調性」ではなく 「均一性」 の教育でしかありません。日本には 「協調性」 を 「均一性」 のことだと勘違いしている人が多いのです。均一性に重きを置く教育というのは、多種多様な考え方を認めない非民主的なものであるばかりか、多数派がすべてを支配してしまう 「全体主義」 を許してしまう危険性をはらんでいるのです。 協調性というのはみんなが同じ考えをすることもなければ、集団の中で個人が犠牲になることでもありません。各個人が尊重され、また多種多様な考え方が共存するというのが真の協調性です。」

かつて シュンペーター は「馬車をいくら連続的に加えて決して鉄道を得ることはできない」とイノベーションの非連続性を強調しましたが、即ちそれは調和の連続性からは「改良」しか生まれず、イノベーションには常に古い価値から新しい価値への新陳代謝が要求されるということを意味します。ソーシャルメディアの上でのコミュニケーションにおいても同じことが言え、社内で生まれた新しい声や突出したものの登場をどう評価すべきか、コンフリクトをどう認め合っていくのか、そうしたことを考えることがとても重要になってきたのではないでしょうか。