フューチャー・オブ・ワーク

集権的なハイアラーキー構造は、専門家の知識を集中させることにより、共通した課題を解決させる際に大きな威力を発揮する構造といわれますが、変化の激しい社会では全体像を知っている人は誰もいないという危険性が伴います。一方、分散的な構造は、選択の自由からなる柔軟性と創造力が強みとなりますが、効率性の面で指摘されるわけです。また、組織においてスケールメリットが重視されるときには集中化がそれを可能とし、柔軟性や創造性が重視されるときには分散化がそれを可能にします。

しかし、このような組織が集中化することの利点はこの10年でなくなったとMITのトーマス・W・マローンは著書の中で述べています。それは、テクノロジーの進化により情報伝達コストを抑えた分散化が可能になり、組織が大きいことによって得られるスケールメリットなどの利益と、モチベーションや柔軟性と言った、組織が小さいことによって得られる利益も同時に享受できるようになったからです。

また、マローンはそのような資源配分に関するコミュニケーションの優劣を 【市場 >民主制 >緩やかな階層組織 >集権化された階層組織】の順に4つのフレームで比較しています。そこでは、取引にかかるコストが低く分散的な意思決定が必要の場合は〈市場〉を選択するのが可能で、それが向かなければ民主制で・・・と言う具合に、どんなリソースがいま必要かという探索コストや、実際に契約や交渉に関わる煩雑さをみて選択を行っているわけです。つまり〈市場〉も〈民主制〉もひとつの意思決定ツールとして捉えているわけです。たとえば、昨今試みが見られるような〈オープン・イノベーション〉といわれる取り組みも、意思決定を外部構造〈市場〉に求めるのか、内部構造〈緩やかな階層組織〉に求めるのかという資源配分の話です。

マローンに言わせれば、「集権と分権」「市場とコミュニティ」「外発的と内発的なるもの」を対立させる議論にはもはや意味がなく、そもそも対立の軸すら存在しないわけです。それらは所与の前提や目的達成の制約手段に過ぎないということです。それにより主体の目的意識と組織の問題は、目的に応じた徹底した議論が必要になってきます。個人の不全感の原因を組織や制度に求めるのは生産的でないだけでなく、別水準の問題を混同したかたちの議論を進めても双方になんの改善ももたらさないわけです。

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